日本法医学会参加記

いつもお世話になっております。梅雨らしくない天気が続き、多少心配な今日この頃です。

今月7日(水)~9日(金)の3日間お休みを頂き、ヒトの法医学の学会(第101次 日本法医学会学術全国集会 at 長良川国際会議場、岐阜市)に参加しましたので、毎度のことながら誰に頼まれたわけでもなく感想を述べます。留守中はご迷惑をおかけいたしました。

本学会参加の理由の第一は、およそ10年前から米国の獣医領域で始まっているveterinary forensics(獣医法医学)の潮流がいよいよ日本にも静かに及びつつある(と私は感じている)ために、100年以上の歴史を持つ日本法医学会をお手本として吸収すべきものがないか情報収集をすることにありました。第二の理由は、獣医領域外の学会に出たことがなかったので、枠を少し飛び出して「目から鱗が落ちる体験」をしてみたかったということです。

学会の様子

・参加者ウォッチング
 1700名弱収容可能という立派なホールに、目算で300名に届かないほどの参加人数でした。法医学という分野が医学の中では圧倒的マイノリティーという事実を反映しているようでした。ただ、日本の獣医大学には(獣医、動物)法医学教室そのものがありませんので、それに比べたらはるかにすごい数字です。
 日本法医学会の会員である友人に聞くところでは、学会員に占める医師の割合は実は多くなく、あとは様々な専門分野の方々や一般の方々も含まれているとのことでした。実際に学会に参加されていた方々は、老若男女がほどよく混在していて、気取らない、飾らない印象の方が多く、縁の下の力持ちの雰囲気がにじみ出ていました。

・法医学って何だ?
 法医学というと、殺人事件の被害者の(時にむごたらしい)遺体の検査という印象をテレビドラマで刷り込まれていますが、今回参加してひしひしと感じたのは、「ヒトの死」を中心とした懐が深い学際的分野ということです。我々が亡くなるとき、(語弊があるかもしれませんが)本人や遺族が納得のいく(納得いくように十分に説明がなされている)死に方であったり、敢えて遺体を検査しようと思わないような死に方であったりが大半だと思います。ただ、これらに該当しない事例が厳然として一定数存在し、それは病院で治療をしていて予期せぬタイミングで亡くなった人、突然死した人、事件や事故に巻き込まれて亡くなった人、自殺や薬物中毒で亡くなった人、背景がよくわからず亡くなった状態で発見された人、一見自然なようだが辻褄のあわない亡くなり方をした人等が含まれます。こういった、ちょっと変だな?という亡くなりかたに対して、何が死因であったのか、死因が確定できないまでも死を理解するきっかけやヒントがないかどうか、アプローチしていくのが法医学の姿勢のように感じました。アプローチの仕方は多様で、病理学的なものは勿論のことですが、薬学、毒性学、微生物学、化学、数学、環境学、社会学等、実に多岐にわたっていました。
 責任の所在や刑罰の根拠を明らかにするという、「法」と密接にかかわった性格を法医学が有していることは当然理解できますが、今回実際に学会での発表や議論を聞いていると、致死的疾患や死のメカニズムに対して根気よくアプローチしていく、生命科学としての姿勢がかなり強いように感じました。
 獣医療では、ヒト以外全ての動物が対象となり、それぞれの動物種、また、それぞれの個体の、人間社会や個々人との関係性が万別なため、ヒトの法医学をそのまま外挿することは避けた方がよいように感じています。獣医法医学が目指すべき方向性については、これから多くの獣医師、学際分野の研究者、一般の方々の議論によって形作っていくべきものと感じました。

・〇〇autopsyの多いこと!
 剖検を意味するautopsyという言葉、これはヒトが同種であるヒトの解剖をするからauto「自己の」がつくのでしょうか。獣医領域では長らくnecropsy(necroは「死の」「死体の」という意味)が使われてきましたが、数年前から「医学に倣ってautopsyに変えよう」という動きになって、最新の獣医病理学の教科書では剖検を意味する語としてautopsyが使われています。ただ、今回の学会で、遺体から一部の組織を採取することに対してnecropsyを使っている発表者の方がおられ、ひょっとすると人の分野では、生前に一部の組織を採取する「生検」はbiopsy、遺体から部分的に組織/臓器を採取することをnecropsy、遺体を丸ごと解剖して検査することをautopsyと使い分けているのではないかと思ってしまいました。だとすると、自らとは違う種の生き物を扱う獣医師は、従来通り剖検をnecropsyと呼んでいいのではないか?そんなくだらないことを考えました。
 それはさておき、皆さん、negative autopsy、molecular autopsy、autopsy imaging、これらが何か、わかりますか?
 negative autopsyは、剖検や組織検査等をしても死因が特定できない症例を指します。とことん調べても何故亡くなったのかわからない例はヒトでも少なくないようです。
 negative autopsyと判断された事例に分子生物学的手法を駆使して挑んでいくのがmolecular autopsyで、従来の方法ではわからなかった様々な「徴候」を、遺伝子レベルで解明していく取り組みです。今回の学会ではこのmolecular autopsyに該当する発表が数多くあり、獣医領域との大きなギャップを感じました。研究費の潤沢さということも勿論あるのかもしれませんが、より徹底して死因を追求しようという姿勢の表れのようにも思えました。
 autopsy imaging(略称Ai)は、遺体の画像検査という意味で、特にCT検査が頻繁に用いられます。発表を聞いているとかなり高い割合でAiが実施されており、それを実際の剖検所見と比較してAiの有用性を確認したり、Aiが見落としがちな病変をあぶりだしたりしていました。解剖と聞くと二の足を踏むご遺族も、遺体に傷をつけずに内部を調べられるAiなら受け入れやすいですし、何よりも死因というものは身体を外から検める(検案)だけではわからないことが非常に多いため、ヒトのAiは着実に普及しているようです。Aiの撮影法(体位等)や撮影のタイミング(気管チューブ、ドレーン、静脈留置等を外す前に撮影すべき等)についての発表もありました。獣医領域でもAiに取り組んでいる先生が少数ながらおられるようですので、獣医病理医として今後コラボレーションができればと思っています。CTを持っている動物診療施設は今日本にどれくらいあるのでしょうか、かなりの数が存在すると思いますので、案外すぐ動物のAiは普及するかもしれませんが、解剖学が千差万別な動物では、より綿密な下調べが必要と思われます。

・臨床家との協調、気遣い、距離感
 法医学の剖検対象例には、臨床医が応急処置・検査・治療を施した遺体も当然含まれます。不慮の死、不詳の死、防ぎ得た死等、様々なシチュエーションがありますが、生き物に起こるイベントは時として臨床家の予測を裏切って悪い結果をもたらすことがありますし、臨床的な検査をどれだけしても病態が一向に見えないこともあります。また、懸命に良かれと思ってしたことが無効・逆効果になることもあります。獣医病理の分野でも、そのような例にはしょっちゅう出くわします。生物は非常に複雑なバランスによって生命を持続させているので、ある意味仕方のないことだと思います。ですので、遺体から見つかる情報には時に、臨床家にとって耳の痛い事柄も含まれるでしょう。それを合同カンファレンスという形で、ざっくばらんに腹を割って意見を交換し、よりよい医療を目指すというのが理想でしょうし、そのようになさっている施設が多いのだなあと、複数の発表を聞いて感じました。
 私の勝手な想像ですが、稀に、法医学者が患者側・遺族側に立って臨床医と対立することがあるかもしれません。少なくとも自分自身は、獣医病理医として、そのようなシチュエーションになることはありうると思っています。何分デリケートな事柄なので、今後の獣医法医学の立ち上げや運営の中で熟慮していきたいと思っています。

・倫理とOne Health
 やはりヒトの学会なので、ヒト由来の臓器、組織、遺伝子を用いた研究は大学や施設内の倫理委員会を必ず通して実施されていました。それは法律で定められたステップであり、患者の尊厳や権利を守る大切な枠組みです。研究の成果・結果は、そのまま遺族に伝えることが問題視される場合も多々あるようで(遺伝性疾患等)、非常に気を遣っておられる印象でした。
 動物の研究にも倫理が無くてはならず、動物実験を実施する際は各施設の倫理委員会に諮らなければなりません。ただ、動物の遺体から採取した試料の扱いは、その目的に整合性があるのであれば、ヒト程がんじがらめな状況ではないと思われますので、ヒトとよく似た病気を示す動物の研究を通じてヒトと動物の双方の生命に利益をもたらすことは、これから獣医領域においては益々積極的に推進すべきなのではないかと感じました。One Healthという概念が昨今、世界中で支持されています。ヒトと動物の共通の健康のために、これから整備されていく獣医法医学(特に法医分子生物学)の役割は大きいと思います。

・生々しさ
 普段は動物の遺体ばかりを扱い、ヒトの遺体を見ることは死化粧を施された棺桶の中でしかないので、検案や剖検の生々しい写真には少なからずショックを受けました。と同時に、自分もこんなふうな遺体になるのだな、とか、動物と(大脳以外は)構造は同じだな、とか、動物の方が毛があるせいか遺体が凛々しいな、とか、原始的な感想を持ちました。良し悪しは別にして、現代の日本では医療関係者、警察関係者、消防関係者等、少数の人々以外は、ヒトの遺体をみる機会がほぼありません。知らないことに対して我々は恐怖心を抱いたり、逆に親身になって考えたりすることができないものですが、生物は必ず死ぬという単純な事実を実感する機会があれば、生きている時間や他の生物をもっと大事にするのではないかなと感じました。法医学がその役割を担う「べき」かどうかは、別問題だとは思いますが。

・産業医のアンケート
 学会場の配布物の中に「法医学業務にともなう疲労・ストレスに関連する自覚症状調査」(粗集計)というのもがありました。とある大学の産業医の先生が、全国の法医学教室に対して行ったアンケートの結果をざっとまとめたものでした。publicなこのブログではその詳細な内容は書くことができませんが、全国の法医学の先生方の過酷な勤務状態が生々しい言葉で描写されており、遺体をみたのとは別のショックを受けました。死を詳細に記録に残したりそこから派生した研究を実施したりすることは、社会全体の責務であり財産でもあるのに、かなり不当な扱いを受け続けている、そして今後も改善の見通しが立っていない、そんなことが透けて見える内容でした。
 獣医領域の死後検査のシステムは米国の獣医大学では割とよく整備され、剖検数が多いのですが、やはり現場では日本の法医学者と同様に疲弊しているという本音があります。日本の獣医大学における動物の死後検査は、まず人的、制度的に成り立ちがたい状況のようです。多大なエネルギーを必要とするわりに、評価・感謝されることが少ない死後検査は、どうしても敬遠されてしまうのです。
 私事になりますが、どんな場合もよく考えたり、思い切って実行してみたりすることで突破口が開けると考えており、弊社では動物の死後検査をそれなりの料金を頂いて、時間的余裕も許していただいて実行しています。獣医法医学的な死後検査のメニューは正式にはまだ用意していませんが、長く続きそうなシステムの構想を練っているところです。

・今後に向けて
 獣医法医学は時代の要請で、日本でも研究会が立ち上がる予定です。ヒトの法医学が通ってきた道をなぞって学んでいくことも重要ですし、動物とそれにまつわる社会には独自の問題がありますので、獣医師としてバランスを取って対処法を吟味・実行していかなくてはなりません。今回岐阜で過ごした3日間を糧に、動物病理の新たな役割について、志を同じくする方々と一緒に考えていければと思います。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

金華山をのぞむ

ノーバウンダリーズ動物病理
三井

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