腫瘍ゲノム解析のおはなし

参考にした文献 Cancer genome-sequencing study design, Mwenifumbo JC and Marra MA, Nat Rev Genet, 14(5):321-32, 2013.

前回のハダカデバネズミのコラムから2カ月近く経過してしまいました。本業の病理診断業務のときは集中して、長時間の作業も苦になりませんが、肩の力を抜いたコラムとなると、自分で勝手に締め切りを延ばしてしまいがちです。こんな性格どうにかならないかなあ、生まれついたものだからなあ、と思うことは誰にでもあると思いますが、生まれついて持っている気質を客観的に解明できないかという素朴な疑問が、実はゲノム解析の大きなモチベーションになっています。
ところで「ゲノム」とは、我々生物それぞれが持つ、遺伝子のセットのことです。同一個体内では、体の細胞どれをとっても、同じセットが含まれています。4種類の塩基(A、T、G、C)について、生物の授業で習った記憶があると思いますが、「全て」の遺伝子の塩基配列を調べ上げたものがゲノムです(ヒトは30億の塩基が並んでいます)。ゲノムは、一昔前までは途方もない時間と金額をかけて解読されていましたが、現在では「次世代シーケンサー」と呼ばれる最新鋭の機械を用いることで解読のハードルは驚くほど下がっています。ちなみに約20年前のヒトゲノム塩基配列決定プロジェクトでは、総額約3.8億米ドル(当時ですと、400億円くらい?)の国際共同研究を10年以上も行ってやっと一人分のゲノムを解読していましたが、現在では数千米ドル(数十万円)出せば数日~数週間で同じことができます。私がやっているわけではないので偉そうに言えませんが、何故か自慢したくなります。

遺伝子

さて、このようなゲノム解読を様々な個体に行い、外見、行動、病気等の因子の情報をかぶせてみたら、遺伝子の配列の微妙な違いが諸々の特質に影響しているかどうかがわかるのではないか、と考えるのは自然なことではないでしょうか。殊に、人類を悩ます種々雑多な腫瘍(細胞が制御を失ってどんどん増えていく病気)にこのアプローチをしたら、腫瘍の診断、治療、予防に画期的な変革をもたらすのではないでしょうか。ということで、昨今は「腫瘍ゲノム解析」という研究手法が脚光を浴びています。
単純に言えば、病気になった細胞のゲノムと、正常な細胞のゲノムの解読を行い、配列を比べてみるのです。同じ個体の細胞間での「引き算」で異常な個所をいくつも暴き出し、さらにそれぞれについて解析を進めることで、腫瘍の原因となっていた異常遺伝子を特定します。こうしてわかった情報をもとに、今度は「特定の異常遺伝子がないかどうか」を知る検査のシステムが作られます。この検査システムにより、多くの人が恩恵を受けることができます。たとえば、今罹っている腫瘍の性質(悪性度、遠隔転移性等)を理解し、治療の選択肢を吟味したり、今はないが将来的にその腫瘍に罹るリスクがあることを自覚して備えたりすることが可能になります。研究対象となっている腫瘍の中には、多発性骨髄腫、悪性黒色腫、乳癌、肝細胞癌、髄芽腫等が含まれています。また、異常が見つかった遺伝子としては、RET、BRAF、KRAS等があります。
こうした新しいアプローチによって、救われる命は確実に増えてくると思われます。しかしながら、圧倒的な量の情報は得られるものの、それを実際の現象に結び付けて解釈することができなければ、まさに宝の持ち腐れです。腫瘍ゲノム解析の分野では、生命情報科学もまた、非常に重要な要素になっているのです。
話がまた硬くなってしまいました。我々獣医師の世界では、実験動物を用いた腫瘍ゲノム解析はある程度進んでいますが、伴侶動物(ペット)に関しては手つかずと言っていい状況です。最愛の動物が、「将来○○癌になる確率は○○%」、「現在発症している○○腫瘍の悪性度は極めて高く、余命○○ヶ月」などと言いう情報は、知りたくない方も大勢いらっしゃるかもしれません。科学の発展と、人々の心とのバランスもまた、忘れてはならない大切な要素です。

「嫌なこと先延ばし遺伝子」、が解明されないことを祈りつつ、次回をお楽しみに。もっと砕けた内容で、頻繁に更新するよう心がけます。